第1章
スカイガーデン・レストラン。
大島莉理は待てど暮らせど田中尚哉の姿が見えず、代わりに届いたのは一通の画像付きメールだった。
差出人の番号は見覚えがない。
画像の中で、女は顔を映していない。豊かな上半身だけが裸で、張りのある胸を大きな手が覆い、ねっとりと揉みしだいている。
その手――。
薬指で鈍く光る結婚指輪が、はっきりと莉理に突きつけた。
夫の田中尚哉が、浮気している。
結婚三周年の記念日。胸いっぱいに期待していた矢先に落とされた凶報に、視界が滲んだ。
涙がぽたりとスマホの画面に落ち、あの指輪を覆い隠す。
テーブルの上の、心を込めて用意したプレゼント。もう……必要ない。
莉理は涙を拭い、颯然と席を立って店を出ようとした。
そのとき、隅の席に目が留まる。きっちりとスーツを着込んだ田中尚哉。隣には彼の腕に親しげに絡む女。
裏切られた怒りが、喉の奥で爆ぜた。
莉理はまっすぐ二人のもとへ歩き、開口一番にぶつける。
「ここまで堂々と女を私の前に連れてくるなら、いっそ私の席に来て一緒に食べたら?」
「……莉理?」
田中尚哉はわずかに取り乱したが、すぐに笑みを整えた。
「紹介する。聡の彼女だ、加藤柚奈」
深澤聡――田中尚哉の幼なじみで、名の知れた女好き。
莉理が信じないと思ったのか、尚哉は重ねて断言する。
「聡は彼女にプロポーズするつもりで、サプライズのプレゼントを取りに行ってる。先に連れてきてくれって頼まれたんだ。信じられないなら、聡が来たら本人に言わせる」
尚哉の冷たい視線に射抜かれ、柚奈も不本意そうに笑顔を作る。
「そうです、お義姉さん。誤解しないでください。田中さんとは、先に下見に来ただけですから」
周囲の視線が集まり、野次馬が増えていく。
証拠もないまま追及すれば、結局は自分が笑いものになるだけだ。
「そういえば莉理、どうしてここに?」尚哉が唐突に話題を変えた。
莉理は冷たく笑って返す。
「どうしてって……メッセージ、見てないの?」
数日前、妊娠が分かった。真っ先に尚哉へ電話したのに、「忙しい」の一言で切られた。
サプライズにしようと思い、言わなかった。
「今日は私たちの記念日よ。今朝もわざわざ送ったのに、届いてない?」
尚哉は確かに受け取っていなかった。彼は柚奈に一瞬だけ視線を流し、すぐ莉理を抱き寄せる。
「ごめん、莉理。今日は一日会議で、頭が回ってなかった」
「プレゼントは朝から用意してある。今すぐ中村に電話して持ってこさせるよ」
尚哉の胸元から、安っぽく鼻につく香水の匂いがした。
吐き気が込み上げる。身体だけじゃない、心の底から。
この場で暴いてしまいたい。けれど――
莉理は尚哉を知っている。証拠のない疑いに、彼はいくらでも言い訳を並べる。
吐き気を堪え、莉理はさりげなく身を引いた。
「人のプロポーズの邪魔はやめましょ。私たちは電球にならないで、帰ろう?」
淡々とした口調は、尚哉に逃げ道を与える言葉でもあった。
二人は前後して席へ戻り、尚哉は勢いよくギフトボックスを掴む。
「俺に? 開けるぞ」
莉理は幾度も想像していた。中の『妊娠検査の結果』を見た尚哉が、歓声を上げるのか、涙ぐむのか。
けれど今は……まだ、その時じゃない。
「何だ……」
蓋が開きかけた瞬間、莉理は慌てて箱を奪った。
「ちょっとした物よ。家で見て」
ちょうどその時、運転手が大小の紙袋を抱えて現れた。とても今買ってきたようには見えない。
それでも莉理の心は一ミリも躍らなかった。
隣の席の柚奈はいつの間にか消えていて、肝心の深澤聡は最後まで姿を見せなかった。
真実は、あまりにも分かりやすい。
「莉理、結婚三周年おめでとう」尚哉はワイングラスを掲げた。
莉理は動かず、小さく言う。
「急に気分が悪くなった。帰りたい」
「どこが? 病院行くか?」
「いい。疲れただけ、休みたいの」
顔色の悪さに尚哉は深く疑わず、車で帰宅した。
田中家。
莉理は車の中で、こっそり箱から検査結果を抜き取っていた。
帰るなりベッドへ潜り込み、布団を頭まで被る。あの写真、あの女――。
不意に、温かな腕が背中を包んだ。
男の手が腰から下腹へ、そして上へと撫で上げてくる。
莉理が視線を落とすと、淡く光る指輪。写真と同じ、細長い指。
嫌悪が一気に込み上げ、欲情など欠片もない。
「もう寝て」
拒絶を感じ取った尚哉は無理強いせず、耳元に唇を寄せて囁いた。
「莉理、愛してる。ずっと変わらない」
「子どものことも考えた。養子でいい。ひとりでも、ふたりでも……何人でも育てられる。君がそばにいてくれるなら、それだけでいい」
その言葉に、莉理の胸が揺れないはずがない。
彼女は探るように言った。
「でも……私、医者に言われたの。妊娠できる可能性はあるって。いつか、ふいに……」
「女が子どもを産むのは、しんどい」
尚哉は一拍置き、軽く言い落とす。
「君にそんな思いをさせたくない。それに、子どもに夢中になったら……俺、嫉妬する」
さっきまで「何人でも」と言っていたくせに。
莉理は背を向けたまま、冷えた笑いを飲み込んだ。辻褄が合わない。
本当に彼女を思ってなのか。
それとも――彼女との子どもが欲しくないだけなのか。
ここ数年、子どもができないことで義母に怪しい薬湯を飲まされ、親戚からも白い目を向けられ続けた。
ようやく授かったのに、夫は少しも喜んでいない。
――私の努力も、我慢も、心の擦り切れも。いったい何だったの。
妊娠のせいか眠りが深く、目を開けるとすでに昼。
使用人の高橋が、用意していた料理を並べながら言った。
「旦那さまからお電話がありまして、今夜も残業でお帰りにならないそうです」
莉理は黙って頷くだけ。
残業?
尚哉がゼロから起業した頃、どれほど遅くなっても必ず帰ってきた。
それが半年ほど前から、理由をつけて泊まらなくなった。
その頃から……もう始まっていたのか。
考え込んだ瞬間、スマホが鳴る。
また、あの知らない番号だった。
【今夜8時、富城ホテル、1108号室】
